母の浮気と両親の離婚そして母の再婚から虐待が始まるまで

こんにちは。たまちゃんです。

私の一番古い記憶をたどってみました。そこにはまだ少しだけ幸せな時間が流れていました。
一体いつからおかしくなっちゃったのか、振り返ってみようと思います。

母の浮気と離婚で愛情不足だった幼少期の記憶

一番古い記憶は、日本海に面した田舎で二階建ての長屋に住んでたときのものです。

保育園に通っていた頃は妹と二人、いつまでたっても迎えに来てくれない母を、日が暮れていく遊戯室で待っていたのを覚えています。
お友達がみんな帰った後も、先生と妹と一緒に母を待つのが日常でした。

その後は幼稚園に通っていました。確か建物は小学校の隣かな?
近所の小学生のお兄さんやお姉さんと一緒に、保育園まで歩いて通っていました。

父と過ごした記憶はほとんどなく、「時々帰ってくる人」くらいにしか思っていませんでした。
時々帰ってきては、お酒を飲んでごろっと横になってる姿をなんとなく覚えています。

いつ頃かは忘れちゃったけど、母が家の近くでカフェを開きました。
カフェには休憩する畳の部屋があり、母の機嫌のいいときには、そこで過ごすことができました。

そんなある日、母が知らない男性とカフェで浮気をしている現場を見てしまいました。
たぶん7才くらいだったと思います。
まだ幼かった私は、それを人に話しちゃったんでしょうね。よく覚えてませんが。

数日後(もしかしたら翌日とか?)父が私に話しかけてきました。
私の両肩に手を置き、真っすぐ私を見つめ、何を見たのか聞かれました。
正直に答えたその夜、今度は父と母に呼ばれ、離婚することになったと言われました。

そして、父と母のどちらと一緒に暮らすか選ぶように言われ、母を選んだ私はその街を離れることになりました。


義父と母の理不尽なしつけと壊れ始める母

引っ越しをした先で母と暮らす家には、知らない男の人がいました。
それがカフェで見た人かどうかは今でも分かりません。

「今日からこの人がお父さんよ」と言われましたが、私はどうしてもお父さんと呼ぶことができませんでした。
だって知らない人だし、そもそもお父さんじゃないしって思っていました。

ある日その男の人が泣きながら母に訴えていました。
私がいつまでたってもお父さんと呼ばないことが悲しいと、泣きながら母に訴えていました。
大人なのになんで自分で言ってこないんだろうと、子供ながらに思っていました。

その場でお父さんと呼ぶように母にきつく叱られた私は、しぶしぶそう呼ぶことにしましたが、私を叱る母に対して理不尽さを感じていました。

そしてこの頃から、母がどんどん壊れていきました。


母の思い出は喜怒哀楽の激しさと義父との夫婦喧嘩

私の母は外ではよく笑う人でした。社交的で明るく話の上手な人だったと思います。
ですが家では、遠くを見つめたまま物思いにふける姿ばかり思い出されます。

機嫌もコロコロと変わる人で、優しくしてくれたと思えば急に怒り出したりするんで、「なんだか難しい人だな」と思っていました。
他人の前ではいつも優しく、機嫌がよかったのはよく覚えています。

新しいお父さんとは、よく夫婦喧嘩をしていました。
新しいお父さんは真面目に働く人ではなく、雨が降ると仕事に行かず家でゴロゴロしていました。どんな仕事をしていたのかは知りません。
ニッカっていうのかな?裾が広がっていて、足首がキュッとしまっているズボンが家にあったので、そういう仕事をしていたのかもしれません。

夫婦喧嘩はとても激しかったです。
口喧嘩からつかみ合いになり、玄関から外に出てもみ合うこともあれば、包丁を振り回すこともありました。
近所の人が止めに入ることもありました。
正直とても恥ずかしかったです。
大人のくせにどうして話し合いで解決しないんだろうって思っていました。


母のうそと男の影

母はよくうそをつく人でした。

新しいお父さんが家にいないとき、知らない男の人とよく出かけていました。
ご飯を食べに連れて行ってあげると母に言われてついて行くと、そこには必ず知らない男の人がいました。
そしてその人が食事代を払ってくれていました。
その男の人と母との関係は分かりません。

帰り際に「お金がない」と母が言うと、その知らない男の人がお金を母に渡していました。
でも母のお財布には、お金がたくさん入っているのを私は知っています。
うそをつく母も、騙されている男の人もバカだと思いました。

そして、これも夫婦喧嘩の原因なんだろうなと、なんとなく感じ始めたのが10才くらいのときでした。


浮気と離婚と再婚で変わっていく生活と虐待の始まり

両親が離婚し、新しい土地で暮らし始めた頃は、まだ母が朝ご飯を作ってくれていました。
夜ごはんもみんなで食べていました。
たしか7才か8才くらいの頃です。

家族でふざけて笑ったりする楽しい時間もありました。
お金は全然なかったけど、それでもまだ幸せでした。
学校から家に帰れば母がいてくれたし、淋しくもありませんでした。

10才くらいになると、両親が家を空けることが多くなりました。
食事を作らなくなり、洗濯をしなくなり、夜も帰ってこなくなりました。
朝起きて両親の布団を見て、帰ってきてるかどうか確認する生活になっていきました。
もちろん朝ご飯はありません。冷蔵庫に食材が入っていることも少なくなっていきます。

洗濯機の横には汚れた洗濯物が山積みになっていました。
体育着も給食エプロンも水着も洗ってもらえなくなったので、いつからか自分で洗濯をするようになりました。
体育着のゼッケンも自分で縫い、妹の分も縫っていた記憶があります。

パチンコ屋に一日中入り浸ったり、人を集めて家で賭けマージャンをしたり、一晩中飲み歩いたりと、両親の行動はエスカレートしていきました。
さらに、義父の言葉の性的暴力が始まります。
卑猥な言葉をわざと言ったり、いやらしい話をしてくるようになりましたが、側にいる母は見て見ぬふりをしていました。

両親の周りにいる大人たちも品のない人が多く、義父と同じようにいやらしいことを言ってくる人もいました。
男女問わずそういった話を子供に向かってするのがとても気持ち悪かったです。
嫌がれば嫌がるほど面白がる姿は悪魔のようでした。

両親は家でお酒を飲むと必ず夫婦喧嘩をしていました。
この頃の夫婦喧嘩はさらに激しさを増し、止めに入れば巻き込まれて暴力を受けることもありました。
髪を掴まれて振り回されたこともあります。
包丁を振り回す姿を見て大泣きした日もあります。
怖くて震えながら、死ぬなら勝手に二人だけで死んでくれと心の中で思っていました。

そして中学に入ると生活はもっと悪い環境になっていきます。
長くなるので、それはまた次のお話としますね。


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