あのクリスマスイブの夜以降の記憶は、断片的にしか思い出せません。
義父と14才の私に誰にも言えない事件がおきたあの日のこと
本当に不思議だけど、次の日何をして過ごしたのか、どうやって姉と暮らすことになったのか、どんなに頑張っても思い出せないんです。
なので、断片的な記憶をつないでいこうと思います。
もくじ
世界で一番おいしいお弁当
1週間後のお正月は、姉の住むアパートで迎えました。
たぶん、私から姉に電話をしたんだと思います。
そしてその後、姉のアパートから中学に通う日々がしばらく続きました。
姉のアパートから学校に行く日、姉がお弁当を作って持たせてくれました。
すごく嬉しかったな。
誰かにお弁当を作ってもらえるのが、嬉しくてたまりませんでした。
赤いウインナーが入っていたっけ。
食べたらなくなっちゃうんだよねって思いながら、大事に大事に食べました。
このとき私は14才、姉は21才。
21才の姉が、私と12才の妹を引き取ることを決めてくれたから、私はあの家を出ることができました。
まだ21歳という若さで、14才と12才の妹を引き取り育てていくのがどれほど大変だったか。
きっと私の想像をはるかに超えた苦労があったと思います。
なのに私は苦労ばかりかけてきました。
お姉ちゃんごめんね。
いじめで下がっていく自己肯定感
16才で東京に行くまでの間に、何度か引っ越しと転校をしたのを覚えています。
場所や学校、引っ越しの回数は全く思い出せません。
ただ、どこに行ってもいじめられたのを覚えています。
優しく声をかけてくれる人もいたけど、そんな時にはいじめの中心人物に「そんな奴としゃべるなよ」とわざと大きな声で言われました。
きっと私の態度がおどおどしていたのかな?
彼女達には目障りだったのかもしれません。
そしていじめられるたびに、私の自己肯定感は下がっていきました。
15才になってやっと人としての作法を教わる
中学3年の冬に、初めて信頼できる友達ができました。
彼女たちは私を家に招き、とても優しくしてくれました。
そしてその彼女たちのお母さんが、私にいろんな作法を教えてくれました。
当時の私は本当に何も知らなくて、無作法な子供でした。
そんな私に、友達のお母さんがいろんなことを教えてくれました。
人の家に上がる時には「おじゃまします」とあいさつをし、脱いだ靴は揃えること。
帰る時には「おじゃましました」と大きな声であいさつをすること。
通された部屋以外は勝手に出入りしないこと。
トイレを借りたら「ありがとうございます」とお礼を言うこと。
夕食に招かれたら勝手に席に座らず、席を促されるまで待つこと。
「どうぞ」と言われてから食べ始めること。
食後は「片付けを手伝います」と声をかけ、そういう気持ちがあることを相手に伝えること。
15才なら当たり前にできるはずのことから、これから生きていくために必要な人間関係のコツまで、いろんなことを友達の家で教わりました。
そしてこの教えは、今でも私の大きな支えになっています。
劣等感・無力感・対人恐怖・人間関係依存症という虐待の後遺症は大きなトラウマとなり姉妹関係を壊していく
姉は必死になって私と妹を育ててくれました。
母親の代わりとならなければならない、そんなプレッシャーも強かったと思います。
それなのに私は反抗し、問題行動を起こし、苦労をかけてばかりいました。
いつも心にぽっかり穴が開いているようでした。
自分に自信がなく、何のために生きているのか分かりませんでした。
人とのコミュニケーションが取れず、人を信用することができず、何に対しても投げやりな気持ちしか持てませんでした。
どんなに頑張っても私の体は汚れているから、これ以上人生がよくなることはない。
本気でそう思っていました。
自分が汚い存在だと思い込んでいたので、人に心を開くことがなかなかできない。
そのくせ一度心を開くと、とことん相手に依存してしまう。
不安定な心理状態なので、生活も行動も人間関係も不安定になります。
そしてそれに姉や妹を巻き込んでしまう。
そんな生活がその後20年以上続きました。
母と義父と決別した日
社会人となり働き始めた私は、大嫌いなはずの母や義父に連絡を取り会いに行く、ということを何度か繰り返しました。
もしかしたら優しい母に変わってくれるかもしれない。
そんな期待と依存に私の心が支配されていました。
大嫌いと大好きが私の中でドロドロと渦を巻いている感じです。
ありえないと頭では分かっていても、どうしても母を断ち切ることができずにいました。
自分で自分の気持ちが分からず、コントロールできないんです。
淋しさと悲しさと苦しさと汚れた体で生きていかなければならない辛さ。
負の感情に押しつぶされそうでした。
そんな私の言動で、何度も何度も姉と妹に迷惑をかけました。
嫌な思いもたくさんさせてしまいました。
それでも二人は私を見捨てず側にいてくれました。
そんなある日ふと気が付いたんです。
私が一番大切にしなければならないのは姉と妹だって。
何がきっかけだったのかは覚えていませんが、この瞬間に私を見捨てた母と、私を傷づけた義父を捨てようと決め、私の中から2人の存在を消しました。
トラウマと共に生きる
家族だから、血がつながってるから、嫌いになっちゃいけない。
産んでくれたことに感謝しないといけない。
親だから許さなければいけない。
そんなことを言う人が当時の私の周りにはたくさんいました。
でも、今はこう思います。
何も知らないくせにいい加減なことを言うんじゃないって。
家族だからなに?
血がつながってるからなに?
それでもやっちゃいけないことがあるし、許せないこともある。
母と義父は、人としてやっちゃいけないことをしたんです。
それを家族だからって、血がつながってるからって、そんなバカみたいな理由だけで許さなければならないなんて、ものすごく理不尽じゃないですか?
今は大声で言えます。母も義父も大嫌いだって。
私の中から存在を消した日から、一度も会っていませんし、どこで暮らしていたのかも知りません。
数年前に風のうわさで、すでに亡くなったことを知りました。
涙も出なかったし、悲しみもわいてきませんでした。
許せない人がいてもいいじゃん。
許せない出来事があってもいいじゃん。
乗り越えられないトラウマがあってもいいじゃん。
治らない後遺症があってもいいじゃん。
人生という長い長い道は、きれいごとだけじゃ歩いて行けない。
大切なのは、うまくいかないことを過去のせいにしないこと。
トラウマを乗り越えるために時間を使うくらいなら、トラウマと共に未来を見て生きていきたい。
過去ばっかりに目を向けていたらもったいないじゃん。
過去から学び未来につなぐ。
それができたときから、私の人生に色が付き始めました。
過去は変えられれる、そして未来も変えられる。
今でも劣等感はあります。
だからって他人をうらやんだり、ねたんだりすることはありません。
悔しいと思ったら頑張ればいい。
過去がどうであろうと、未来は自分で作れるんだから。
うまくいかないことを過去のせいにしていたら、私の娘たちに私と同じ思いをさせてしまう。
子どもを育てながらそう思いました。
子供を感情にまかせて叱ってしまうのは、私が虐待を受けていたからじゃない。
私が感情をコントロールできないから。
なら、感情をコントロールできるようになればいい。
私が疲れて家事をさぼり家が散らかるのは、育児放棄されて育ったからじゃない。
手抜きして程よくこなす方法を知らないから。
なら、楽な方法を知って、できるようになればいい。
子どもを育てながら、少しずつですが前を見て進めるようになりました。
そして本当に大変な時には、姉と妹が飛んできて助けてくれました。
守る存在がいるということ。
守ってくれる存在がいること。
このふたつが私を大きく変え、上を向いて歩けるようにしてくれました。
そして今、人に依存することはなくなりました。
人を信頼することもできます。
自分が何かしら行動を起こせば、必ず未来が変わると信じることもできます。
夢中になれることも見つかりました。
自己肯定感が高いか低いかはどうでもよくなりました。
あの頃の私のように、悲しい胸の内を人に話せずに暮らしている子が今もいます。
あの頃の私のように、空っぽの心をどうしていいか分からないまま大人になった人がいます。
これまでの私を、姉と妹や他のたくさんの人たちが寄り添い支えてくれたように、今度は私が寄り添い支えることができたらと思っています。
どんなことを考え、何をして今の私にたどりついたのか。
それを思い出し記録しながら、「サロンたまちゃん」の活動の軸を作り、広げていこうと思います。
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